星が降り注ぐ午前2時 ③

あー……
目が覚める。ここが自分の部屋であることは間違いない。
時刻を確認すれば9時50分。

大学まで徒歩7分という売り文句でこの学生マンションへの入居を決めた。今から支度すれば10時40分からの2限には時間を持て余すくらいには間に合う。

今日は2限と3限の2コマ。必修科目の兼ね合いで昼休みを跨ぐ。

けど、今日は丸野をはじめとした学科の友達とは授業が被らない日だし、お昼どうしようかな。1回食べに家帰ってこようかなあ。
気合いを入れて起き上がり、支度を始める。
昨晩、傍にあった温もりは当然ながら消えている。
――――しかし。
「あの人の煙草の量どうにかならないかな」
そんな独り言を呟いても反応をしてくれる者はいない。
お気に入りのグレーのチェスターコートに染み付いた彼の置き土産を消滅させるように、消臭スプレーを振りまいた。
「いってきます」
煙たいにおいが染みついたグレーはベランダで一時乾燥。代わりにフローラルなかおりに包まれたキャメルのダッフルコートを羽織り、家を出る。
両親からは挨拶については厳しく育てられたせいで、一人暮らしをしている今でも、誰からも反応はないと分かっていても癖で「いってきます」と口に出してしまう。「ただいま」も「いただきます」なども同様だ。
別に悪癖ではないからいいか、と思ってそのままだけれど、ナオと初めて食事をしたときに手を合わせて「いただきます」と呟いたとき目を丸くされた覚えがある。その反応にこっちが驚いたくらいだ。
マンション3階にある自宅からゆっくりと大学へ向けて歩き出す。
イヤホンをして、好きなバンドの曲をウォークマンから再生する。それができたら次はスマートフォンを確認。
結局、昨日は深夜2時頃ナオに家まで送ってもらったあとすぐに寝てしまってスマホを確認できていなかった。

ナオは絶対にお泊まりはしない。

夜遅くなろうが帰る。

その帰り道に腹減ったーと言って簡単なファミレスだとか牛丼だとかを食べて帰ることもある。

昨日はまっすぐ帰って2時だったから、彼が自分の自宅に帰宅したのはもっと遅い時間だったろうな。通知チェックしたら一言メッセージ送っとこう。

スマホのロックを解除して、通知欄を確認すれば、ゼミのグループトークが動いていたり、SNSのどうでもいいニュースの新着通知だとかが来ていたり。と、新着順にスクロールして返信が必要ないものには既読だけつけ、必要なものには相手がほしがっている内容を返す。そうして徐々に受信時間が古いものを確認していくと。
「っ、」
見たくもない、名前が二つ。
ああ、そうだ。一つは長文メッセージ来ていたっけ。

かつて所属していたサークルの同期“まつもとみなみ”からの通知で、一瞬で現実に引き戻される。自分がしたこと、今の自分の立ち位置。
そして、もう一つの名前。
「“おまえと話したい”って、」
絵文字も記号もない、シンプルな一文。通知欄でも全文が確認できるたった8文字に込められたその真意は読めない。
今さら何を話したいって言うんだ。
送り主は恭介さんだった。

みなみの彼氏。私の、元彼氏。
「あ~!栞!!」
スマホ画面にしかめっ面を向けていると、背後から聞き覚えのある声が。
「わ、真子」
声をかけて来た真子は、昨年末まで所属していたサークルの同期だった。
このタイミングで、真子。
私の知らないところであの2人、また何か起こしているんじゃないか……と疑いたくなる。
みなみも、恭介さんも同じサークルの仲間だった。
「栞と会うの久しぶりだね」
「そうだねぇ……学部違うもんね」
私がみんなと会わないように避けていた、ということもあるけど。
そんな私の心を知ってか知らずか、真子は投げかける。
「今ねー……みなみちゃん大暴走期なの」
「、……」
呼吸が止まりそうになった。
あの子も、彼も、私に連絡をよこしてきた時点で何かあると思っていたけど……
「……変わってなくて安心した」
「よくないよぉ~~ とばっちりひどいんだから。いい加減大人になって!ってかんじ」
真子は顔を覆うと共にああ~~と困った声を出す。
このオーバーリアクション、事の大きさが伝わりづらいから私は前から苦手だ。
「このくそ忙しい週間にかまってちゃん発動は本当に困る。やめて欲しいわ」
「もうすぐ“年忘れ”だもんね」
私が所属していたサークルは所謂イベサーというもので、時季ごとに学内生向けの大きなイベント企画・運営をしている。
12月の第一金曜日は学内交流会という目的の元、“年忘れ師走会”と称して学内の広いイベントスペースを貸し切って食事・ゲーム・ビンゴなどお楽しみ企画を開催している。
先生や職員も参加できるような、大学公認イベント。
まあ学校を出たあとは各々二次会が始まったりして、大学生らしいこともしているんだけども。
「そうだよ~ 本番1週間前にこんな私情挟まないでほしい。恭介さんと2人で解決してって」
ここにきて彼の名前が出てきてドキッとする。
「……喧嘩するほど仲が良いってやつじゃないの?」
「さあ~?噂によれば今回の喧嘩の発端は、恭介さんの元カノ絡みらしいよ」
「っ、」
真子は、知らないはずなのに。
こういう言い方するということは、その元カノが私だと分かったうえで言っているのか……
そうだよね。同期には女子が多いし、この手の話が一瞬にして広まるのは無理もない。
「そうなんだ早く仲直りするといいね」
当たり障りのない言葉を告げておく。
みなみを選んだのは恭介さんなのに、都合のいいように私を突っ込ませないでほしい。
「私、次の授業A棟だから行くね。真子あと1週間がんばってね!」
本当はすぐ目の前にあるE棟での授業なのに、早くこの場から逃げ出したくてわざと一番遠い棟へ向けて歩みを進めた。
恭介さんと付き合っていたのは大学1年の夏だった。
そう、夏だった。私は彼と過ごす秋を経験したことがない。
初めて携わった夏季イベントが終了して、前期試験も終わって、夏休みに入りかかった日のことだった。
夏季イベントで私は恭介さんと関わる機会が多かったこと、まだ大学生のノリにも不慣れだったこと。いろんな大学生マジックの末、私から告白したらオッケーしてもらえたのだ。
先輩たちを見てきてサークルメンバーに気を遣わせるのは嫌だから、と言った彼に従って周りには内緒のお付き合いだった。
あの時の私は有頂天で、彼に嫌われないように深く考えずに了承した。
だから胸の内で幸せを感じていて。たとえばスケジュール帳の付き合った日付にはハートマークを書いたりとか、とにかく浮かれていた。思い出すだけでも恥ずかしい。
でも、後期授業が始まる前に振られた。

「ごめん、やっぱり付き合えない」

幸せの頂点からどん底への急降下だった。
誰にも話すことなく幕を閉じた、まさに夏の恋だった。
―――と思ったら、10月。彼がみなみと付き合い始めた、ということをサークルの同期から聞いた。

「7月イベントの時からずっと両想いだったらしいよ」
私とのことは内緒だったのに、みなみとのことはすぐ公にして、そんな噂がしっかり内輪に流れて。
あー、私キープだったのかな、なんて。
ショックだった。サークルにも行きたくなかった。
サークルルームで2人が仲良くしているところなんて見たくなかった。
でも時は悪く、私はその頃―――ちょうど1年前の年忘れの企画発起のタイミングで、運営の部門リーダーになっていた。
みなみも、同じ部門だった。
みなみは部門の先輩たちのことが大好きで、先輩のように活動したく、この部門への配属を決めた。
その中で、私がリーダーを務める。私が彼女に指示を出すポジション。
部門内で、立候補制で決めた役割で私以外に立候補がなかったからすんなり決まったのに、先輩への憧れと独占欲の強い彼女はそれだけでおもしろくない。

"ーーーそれに、今きょうくんと付き合ってるの、わたしだしねっ"

蘇る声色、リズム、こちらへの敵意を含む瞳。

いつ知ったのか私を恭介さんの元カノとして認識し、敵対心を隠すことなく関わるようになった。
至急返信がほしい事柄に対し、故意に連絡を無視されることがあった。
SNSにも意味深な投稿をされるようになった。誰とは明記せず、でも内容からしてサークルメンバーには私のことだと分かるような内容。
とてもやりづらかった。とてもしんどかった。
でも誰にも相談できなかった。

大丈夫、できる。

この二言が合言葉だったけど、イベント当日を迎えて、すべてが吹っ切れた。

無事に当日運営、片付け、次回への反省会などすべて終了した日。
私は代表にサークルをやめることを伝えた。
誰にも相談しなかった。運営準備の際、その活動ぶりを評価してくれた代表にはすごく残念がられた。
それを伝えたとき、代表の隣には恭介さんも居合わせていた。
正直言ってこれは計算だった。最後くらい、彼に動揺を与えたかった。
動揺されなくても、何か、当てつけたかった。
―――彼はただ静かに私を見つめていただけだった。
「……はぁ」
自然とこぼれたため息に、まだ恭介さんのこと引きずってんのかなって笑えてくる。
人を好きになることが怖くなったのは事実だ。
サークルをやめてからは授業とアルバイト中心の生活になった。
それでも夜ひとりの家に帰ると、あの敵意ある瞳を思い出して眠れなくなった。
やめてすぐ訪れた長い大学の春休みは昼夜逆転しようが問題なかった。飲食店でのアルバイトもシフトが2週間に1回の提出だったから体調と相談して調整しやすかった。

それでも、学年が1つ上がって、サークルをやめて3ヶ月が経つというのに2年の前期授業は1限にある必修科目ですら行けなくなった。

彼女と学部が違ったこと。彼と学年が違ったこと。

それらだけは救いだった。
前期の成績発表で行けなかった授業の単位を落としたとき、ヤケになってチャットアプリを始めた。そこで、ナオと知り合った。夕焼けが染みる夏の終わりだった。
彼は年上ということもあったし、前提が割り切った付き合いだから、彼といるときが一番心安らいだ。夜も随分眠れるようになった。あんな社畜を相手に悔しいけれど。
私の処女をもらってくれたのはナオだった。だからかな。他にも関係つくったりしたけど、結局現在も関係が続いているのはナオだけだ。
恭介さんとは一線をこえなかった。1度だけ、キスをした程度だった。
その行為をねだったのも私からだったから、彼はきっと最初から私を好いていなかったのだろう。同情とか、暇つぶしとかで、付き合ってくれたのかな。
学内の放送機器から機械的なチャイムがなる。授業開始の合図だ。
あー 2限……
遅刻だけど、欠席するより十分だ。行こう。出席点必要な授業だし。行かなきゃダメだ。
そう気持ちを律してE棟に戻ろうとしたとき。
「―――栞?」
声をかけられた先にいたのは、今ずっと思考を支配されていた人物で。
「きょうすけさん」
彼にただ名前を呼ばれただけで、胸が高鳴るなんて。
ああ、もう。最悪な1日の幕開け。