星が降り注ぐ午前2時 ⑥

---最初はただの言い訳作りと時間潰しだった。

周りの同僚からの合コン圧。上司からは縁談の持ち込み。いや、俺そこまでしてもらうほど優秀じゃないし。ていうか仕事にプライベートは持ち込みたくない派なんで会社繋がりのご縁だなんてまじ勘弁。会社関係で知り合った人と家庭を持つ、なんて面倒なことは絶対しない。まあ、出世狙いの野心家であれば飛びつくうまい話だろうけど。

だから適当に「彼女がいる」と吹聴していたのだが、飲みの席での同僚からの「結婚しないの?」質問に具体的な彼女の年齢、日取りを追及されても困ると思い「……まだ学生だから」と返してしまったことが運の尽き。

「えっおまえ学生に手出してんの?!!」

「あーーー…………うん、そう。大学生です。成人してるからまじであらぬ噂立てないでくださいよ。そういうリアクションまじで面倒だからここだけの話にしてくださいよ!」

ああ、嘘で嘘をどんどん塗り固めていく。

「やっぱ北条はまだ結婚したくない感じ?元カノと別れたのも結婚圧に耐えきれなかったからだろ」

アルコールが入っていることもあって普段よりも饒舌になった同期入社の中で最も親しい営業の内村から緻密な情報をべらべらと暴かれてしまう。

シラフなら絶対こんなこと言わないだろううっちー……貴様酔ってるな………アルコールよ………くそ…………

「え、そうなん?学生と付き合ってんのも元カノの影響?」

「あーー………まあ、うん。元カノは大学の同期で3年生からの付き合いだったんすけど、彼女は24歳までに結婚したいと学生の頃からずっと言ってて……でも、24歳イコール入社2年目の年に結婚って実際就職して自分のことでいっぱいいっぱいだった時期に結婚というワードを酸っぱく聞かされるのがしんどかったんです。まだ貯金もそこまで十分あるとも言えないし彼女を幸せにできるって断言できない時にそれはプレッシャーだったので。だから新卒1年目の研修期間に別れました。そしたら3ヶ月後に共通の友人から5歳年上の人とスピード結婚することを聞きましたよ」

「うおお………女性こわっ」

「まあ彼女だって就職した途端に結婚!って言葉を口にしたわけじゃなく、学生の頃からずっと理想を口にしていたから俺にだって準備する時間はあったわけですよ。だけど俺は遠い先の話だと他人事だったからそんな準備をすることもなく、男友達との遊びに夢中だったから、ただタイミングと……よく言う価値観の違い?ってのでうまくいかなかったんだと思います」

というより、たぶん俺が元カノにしっかり向き合ってやれなかったのが1番の要因だと思うけど。

だから当分結婚はいいし、それを連想させるような相手と付き合うことも、そういった話をされることもしばらくはごめんだった。

しかし、今年に入ってから同期や学生時代からの友人が怒涛の結婚ラッシュを駆け抜けていくとそうはいかない。周りが置いていってはくれない。

「ていうか、その学生の彼女の写真ないの?見せてよーーかわいい年下の彼女ーーーー」

「いや無理無理。勝手に写真見せたら彼女怒るし。どうせ見せるなら彼女も自信ありなやつにしてあげたいし」

「えーーじゃあ俺来週から出張だし、次の飲みまでに許可もらってゆっくり見せてーーー」

「えーーー」

「楽しみにしてるぞ!」

強く断れなかった。まあ、酒も入ってるし、今日金曜日だし。次の出勤の月曜日には忘れているだろ。

………と、思ったのが甘かった。

 

「なあ、おまえの彼女から写真おっけー出た?」

「………」

翌週、出社して早々にでかいスーツケース片手に出社してきた同僚にそんな言葉を告げられる。

げんなりした表情になりそうな直前で意地でも口角を上げる。

「……悪い、飲みでそんな話したっけ?」

「したしたー!なに、珍しいなおまえが記憶なくしてんの」

「………あはは、疲れてたのかも」

「俺もうすぐ出るし、次の飲みだったらどうせ月末だろ?その時見れるの楽しみにしてるからなー!」

文字通りルンルンな状態で自分のデスクへと直行していった同僚は必要書類を確認して文字通りすぐ半月程度の出張へと旅立っていった。

……これはまずいことになった。自分から蒔いた種だが、いない彼女の写真を用意しなくてはならない。しかも、大学生の成人している彼女。

同世代なら大学の女友達に頼み込んで写真くらいなら用意できるが、結婚の話を回避したくて話に出した彼女の存在だ。同世代なんてもってのほか。

女友達の数年前の大学生の頃の写真……いや服装や写真の画質で時代が出る。そもそも女友達にそれを頼むこと自体、仲間内で酒の肴にされる。話題になるのは確実。それはまじ勘弁。

しかし年下女子の知り合いなんかいない。大学生という若々しさを出せるような年下………大学のサークルの後輩も1つ下ならまだしも、今年社会人なりたての2つ下にがっつりこんな願いを申し出れるほど仲の良い絡みはない。

困った。誰か大学生、悪用しないと誓うから写真を貸してくれ。いや、彼女の写真として偽って使うから悪用満載か……………

そんな勢いでマッチングアプリに登録した。

22歳あたりは次の新卒入社がいたら困るし、まだ結婚も遠そうな大体20〜21歳あたりで……、ってそんなフィルターかけて検索している自分がその辺の若い子好きなえろじじいたちと同列なことをしている事実に吐き気がしそうだ。

あれ、なんでこんな必死になっているんだ……?

スワイプして写真を見て、プロフィール欄を見て、まだ話の通じそうな子をいいねする。

そこからいいねを返してくれた子と何ターンかやりとりを返して、としているうちにシオリという女の子と深くやりとりを返すようになった。

「"会いたいです"……ねぇ」

意図も容易く男を誘い出す言葉を送信してくるくせに、がつがつとトークを返してくるわけではない。仕事終わりの時間を聞かれるままに答えると、俺が送ったメッセージに対する彼女からの返信はその時間を過ぎてから「お疲れ様です」を皮切りにメッセージを送ってくる。この子は一体どんな子なんだ。

いきなり会おうはさすがにぶっ飛ばしすぎ。

そう思って通話を誘ってみた。

「10分だけ通話しませんか……ってこんな文送ってるとか知り合いに思われたくないな」

 

初めて通話したときのシオリは緊張なのか強張っていたのをよく覚えている。

ほぼメッセージのやりとりをしていないうちに"会いたい"って送ってきたくせになんなんだ。

「緊張してんの?」

「だって、……こんな風に通話するの、初めてなんです」

「会ったりするのは結構してんの?」

「うっ、それは……まだ。したことないです」

へーーー………いや、

「警戒心なさすぎでしょ」

心の声が思わず漏れる。

「……始めたての時に、写真ちょうだい?とか会える?っていうメッセージに戸惑ったら、すごい剣幕で怒られて……だから、ちゃんとしようと思って……」

とんでもない男もいたもんだな。

いや、俺も写真ほしいって言うお願いをするようなやつだから人のことは言えない………

「へー………ちなみに俺も写真ほしい」

「えっ!!!!?」

「ていうか、聞いてほしいお願いがあって」

俺がこのアプリをやるようになった経緯を話すと、彼女は交換条件を出してきた。

「一晩一緒に過ごしてもらえませんか」

………はいー、

「警戒心なさすぎ。大丈夫?」

「実は、……最近夜、ひとりじゃ寝れなくて。話し相手になってくれませんか?」

「……じゃあ、しばらく毎晩通話しよう。それで、話しを聞いて会ってみたくなったらまた口説いて。俺のお願いもその時に聞いて」

「くどっ、」

「だって、会いたいですなんてキラーワードじゃん?」

「〜〜っ」

彼女の言動を改めて言葉にすると、羞恥心で息を呑むのがスマホ越しにも伝わった。

 

それから10日ほど毎日通話をして、わりと彼女の話し方、考え方が気に入ってきた頃にその日は突然やってきた。

「ナオ、あとどれくらいで着く?」

自宅に帰宅、21時を過ぎた頃、震えた声の彼女からの突然の電話。

確か今日は友達と飲みに行くから通話はできないと断られた日で、だからこそ会う約束なんかしてないけど。

予定をしっかり立てて割り切り上手な彼女がこんなイレギュラーなこと、無意味にやらないと言い切れるくらいには関係を築いたつもりだ。

「わりー、今会社出たとこ。どこいる?すぐ車飛ばすし、人目につくとこいろよ」

明日朝から直行で客先とか、彼女のいるだろう街まで片道どれくらいだとか、そんな現実的な考えに至る以前に家を出てしまうほど、俺は会ったことのない彼女に溺れていた。

周りに誰がいるかも分からない状態だからとりあえずメッセージに位置情報飛ばして、と伝えたら彼女はものの数秒で送信してきたその場所は自宅から車でわずか20分の距離。

彼女、この辺の住まいじゃなかったよな……

と、思いながら車を走らせて、近くなったところで通話をする。

「どこ?」

「えっ……と、駅前のコンビニ」

「ひとり?」

「……誰かにつけられてるみたいで」

「は?!」

まじか。ストーカーかよ。

「心当たりは?」

「……さっき、友達と遊んでた時に、ナンパしてきた人に似てるっぽい。友達がきっぱり断ったけど、なんか、それがよくなかったのか…」

「友達は?」

「帰りの方向違うから、地下鉄改札前で別れて。私だけ……」

なるほど。どっちか1人になるタイミングを待ってたわけ。

「もう着いた。コンビニ目の前停めてる黒のな。通話切らずにそのまま出てこいよ」

そう言いながら自分も車外へと出て、助手席側に回る。

さて、彼女は一体どんな子なのか---

「シオリ」

受話器越しに呼んだ声が届いたのか、はたまた地声がそのまま届いたのか。

俺の目の前にぱあっと明るい表情を見せて「なおっ」と呼んだ女の子は好みどストライクだったのだ。

星が降り注ぐ午前2時 ⑤

「昼間の女の子、おまえの友達?」
まだ夕方と言っても過言ではない午後6時、彼とこの時間に会うのは初めてだ。

見慣れた車種に、少し緩めたネクタイ。

オンモードの片鱗が見えるほぼオフのナオ。

私を家の近所まで迎えにきてくれた彼の愛車に乗りこんで5分ほど。
ストレートに彼は昼間のことを話題にしてくる。
「……んー、まあ、ともだち……」

結局みなみのメッセージには既読だけつけて、返信はしていない。

長々と書かれていたが要約すると恭介たぶらかすな、返せって内容だった。

「即答できない関係はトモダチって言わねぇぞ」

「…そうだね」

ナオのストレートな物言いに、限界が緩んだ。
「好きだったサークルの先輩の、今カノ」

すごく、好きだった人の。

ほろり、ほろりと、言葉が溢れる。
「へー……ほんとに修羅場だったんだな」
「だから店内入るのが嫌だったの」
「で?昼の感じだとおまえはその先輩と付き合ってたと?」
「…うん。去年の夏休み、告白して、おっけーもらって、誰にも内緒で1か月だけ。私がフラれちゃった。気づいたら、みなみと付き合ってて、彼と彼女の仲はサークル公認だった」

1年生の夏の思い出は、静かな夜道を一緒に歩いたこと。デートと呼べるのはお別れを告げられた日に行った水族館。1か月と言っても毎日会っていたわけでもなく、実質1週間ほどだ。

8月の夜6時はまだ夕焼けが残っていたのに、クリスマスが近づく現在はそんなかけらも見えず、すでに真っ暗だ。
窓から見えるのは飲食店の電光看板。見慣れない土地。
彼は「ドライブ」と一言で片づけて車を走らせている。
本当に気分転換に連れ出してくれているようだ。
「おまえ、その先輩とまだ繋がってんの?」
「ううん。サークルやめたし、…あ。学科が同じだから、同じ選択必修の授業はとっているけど」
「メッセージは?」
「え?」
「アカウント、ブロックした?」
「……してない。昨日、“おまえと話したい”って連絡がきて、未読無視してたら今日学内で遭遇しちゃった」
「へぇ、そりゃまた不運な」
「やり直してほしいって言われた」
「……やり直す気はあんの?」
「…わかんない。吹っ切れてないところもあるし、好きで自分から告白した先輩だったから、揺らいだ自分もいるけど、でもサークルの仲間のこと考えて面倒だなって感じる気持ちが大きい」
「まあ、そりゃごもっとも」
「……ナオは、あるの?」
「ん?」
「痴情のもつれ」
「ぶっは」
「?!」
突然大爆笑するナオに驚きを隠せない。
え、どこに吹き出す要素あった?
え、とりあえずハンドルしっかり握って。
「おっまえさー……ぶふっ ほんとおもしろい。かわいい。合格」
「え?」
緩やかにブレーキがかかる。
前方の信号は黄色から赤へと色を変える、と。
「っ、」
彼の左手に吸い込まれ、触れるだけのキスをしていた。
「おまえさー、ほんと俺のツボなんだわ。言葉のチョイスにしろ、所作にしろ、自分から割り切ってくるところ」

「は?」

褒められている気がしない。

「かわいいってことだよ」

「は、っ…?!」

彼から目を見て、そんな口説き文句を囁かれたのは初めてで、照れる一方私は今からこの人に何か騙されるんじゃないかと冷や冷やした。

「元カレどんなやつ?」

「…ぶっきらぼうで不器用。だけど視野が広くて、全体を見渡してて、影からこっそりサポートしてくれる人。目立つことは好きじゃない人」

「へー……めっちゃのろけるじゃん」

「…だって人生で初めて自分から告白して付き合えた人だもん」

「はじめてのおとこは俺のくせに?」

「っ、うるさい!」

「はは、かわいいかわいい」

っ、!また!

さっきから語尾のようにかわいいを連呼されて落ち着かない。

「ねぇ、これからどこ行くの?ホテル?」

「おれの家」

「え?」

「だから今日は寝たいって言っただろ」

適当にドライブしているかと思いきや、ちょうど車はETCレーンを通って、高速道路へ。

えっ

思考が追いつかないまま大丈夫か?という言葉で脳裏が埋め尽くされる。

いくら、幾度か関係を持ってきた相手とはいえ、家に……しかも高速道路を走る距離………

「シオリ」

「え、はい!」

「助手席前のグローブボックス開けて」

「はい!開けました」

「んで、黒い名刺ケースない?」

「あります!」

「その中から1枚出して」

「1枚?」

脳内処理が追いつかない状態で言われたままに、手を動かすと、名刺ケースの名の通り、名刺が十数枚入っていた。

「読み上げて」

「えっ、"株式会社ファースト 営業部 一課 北条直也"……え??」

「それ、俺の名刺な。1枚持っとけよ」

え、?

彼の名前は北条直也と言うらしい。

下段には会社の代表電話番号、そして彼に繋がる個人携帯番号とアットマーク以降に社名が入ったメールアドレスが記載されている。

「どうして急に……」

「まあ、自分の家連れていくからには身元はっきりしておこうと思って。ちなみに偽造じゃないぞ。調べたら会社のホームページ出てくるし、何なら俺は次の新卒採用サイトに顔出しで出ている」

「えっ」

「それでシオリが少しでも俺のこと信用して安心してくれたら嬉しい。あと20分もあれば高速降りるし、暇つぶしに調べてみろよ」

言われるままにスマートフォンを取り出して、ネット検索欄に先ほど読み上げた社名を入力する。

検索を押すと、―――出てきた。え、一部上場企業?え、え、え?

彼の言う、採用情報ページをクリックすると、いきなりトップに複数人の顔写真が表示されて、その中の1人に爽やかな笑顔を浮かべた彼がいる。先輩の声のページをクリックすると、―――営業部 北条直也のページが。

「えっ いる!!!」

「ふはっ本当にリアクション面白いな」

「……こういうところに顔出してるのに、アプリやってたの?」

「いや顔写真出たのは最近。来春入社の子たちの採用はもう終わってるから、その次の今の3年生向け……シオリの1つ上の学年対象のページな」

「なるほど……」

「それに、俺はこういう出会い方してるのおまえだけだから」

「えっ」

思わず彼の方を振り向くと、「次のインターで降りるから」となんてことない顔で告げられた。

星が降り注ぐ午前2時 ④

<シオリ:今日時間ある?>
<ナオ:今日は厳しい>
午前に送ったメッセージへの返事が来たのは13時を過ぎた頃だった。
彼と私の関係は年の差があれども基本的に対等だ。
敬語もない。車に乗せてもらうときも私は免許を持っていないからガソリン代を渡した。
食事に行ってもきちんと割り勘。それは一夜を過ごすホテル代も。
そうしたのは私だった。
彼は「俺が出すからいーよ」って言ってくれたけど、付き合っているわけでもないし彼に貢いでほしかったわけでもなく、奢られる理由がなかったから自分の分はきちんと支払うと伝えた。こういう細かいところが嫌なら連絡切ってくれていい、とまで言うと不思議なことに彼は大爆笑しながら「わかった」と答えていた。
<シオリ:そっか!お仕事がんばってね>
ありきたりな文面を送信。

そうだ。12時間前まで一緒にいたのだ。午前2時、私を家に送り届けたあと、彼は自宅へと車を走らせただろう。
抽象的な地名しか聞いてないから具体的にどれだけの時間がかかるかはわからないけど、少なく止まる私の家から彼の家まで1時間はかかることだろう。
夜遅くなっても彼は絶対宿泊せずに帰宅する。私を家の近くまで送り届けてくれるし、その流れでうちに上がり込もうともせずに帰宅していく。割り切った関係だからこそ、プライベートへの侵入は最低限のボーダーを守ってくれている。マンションの前ではなく、近くで降ろしてくれるのもそういうことなんだろう。
昨晩会ってたしなー…
そりゃ今日は厳しいって返事くるよなぁ。
……新しい人、探そうかな。でも、なんか、あの社畜がいいんだよなぁ。
さいしょのおとこ。

だから、やっぱり特別感という情が彼にあるのだろうか。
………こんなだから、私は今も恭介さんにほだされているのだろうか。

人生で初めて自分から告白して付き合えた、男の人。はじめてって響きが情をしとしとと浸らせている。
ぼんやりと思い浮かべていると、手元のスマホが振動しだす。
画面を確認すれば、<着信:ナオ>の文字。

うわっ
「もしもし?」
≪よお、どうしたんだよ≫
即座に通話ボタンをタップするとスマホ越しからナオの声と、遠くから車の走る音、人が行き来する足音が聞こえる。
外回りとかの帰りかな。
「や!ごめん、なんでもない。昨日遅かったのに、突然ごめんね」
≪……≫
ほんと。なにやってんだ。
向こうは社会人で、彼氏でもなくて。
そうだ。
私がほしいとき、ほしい言葉を言ってくれる存在ではない。ギブアンドテイクの関係。なにを甘えようとしてるんだ。
≪しおりぃ≫
「…なに」
≪俺がなんで、午前3時帰宅後シャワー入って3時間睡眠とって出社して朝から外回りいって相手先に媚び売ってようやく昼飯食えるってときにわざわざおまえに電話したと思ってんだ≫
「え、」
≪今からシリウスに来い。もちろん、おまえの家の一番近くの≫
「え?!!!」
私の返事を聞かずに通話は途切れる。
なんで。
彼が指定したシリウスは全国展開をしているカフェチェーン店で各地にある、が。
私の家の一番近くって、1か所しかない。
なんでこんなところにいるの、って。そっか外回りの帰りなら、取引先がこの近辺って可能性はあるか。そういえば彼の車に乗せてもらったとき、この周辺を迷うことなく走行していた気がする……
荷物を持って、彼の指定したカフェへ足を運んだ。
―――私の家の近くの店舗が、大学最寄りの店舗であるという思考にたどり着く前に。


そのことに気づいたのは店にたどり着いて、彼よりも先にもっと見知った顔を確認してしまったときだった。
この気温ががくんと下がった11月下旬に、テラス席で学科の友達と楽しそうに会話を楽しむ、みなみの姿。
あーもう……今日は朝から、なんで、メッセージ未読状態の人々と会うのか。
レジで注文をしてから好きな席で時間を楽しむセルフ形式のカフェだから、みなみに見つかるより先にオーダーを済ませてナオのところに行けばいい。なんならオーダーせずにナオの元へいけばいい。
ナオにメッセージで居場所を確認する。
<ナオ:店内、テラス側のカウンター席>
どこだろ、って思って見渡せば、タイミング悪くみなみのすぐ近く。
<シオリ:すぐ近くに大学の友達いるから、外に出てこれない?>
<ナオ:社会人の昼休憩をなめるな>
<ナオ:おまえが来い>
うっ、ごもっとも。
連投で返ってくるメッセージにぐうの音も出ない。しかも私からの連絡がきっかけであれば、これ以上わがまま言う権利はない。
レジですぐ用意してもらえるホットコーヒーをオーダーして、彼のいるカウンター席へと急ぐ。
みなみがこの時間にここにいるってことは今空きコマだろうからしばらくはテラスでお喋りを楽しむだろう。
お喋りがお開きになる前に私が先に退店すれば、問題ないはず。
「ナオ、」
彼に近寄って声をかければ、このカフェの看板メニューのチキンドックを頬張りながら彼はこちらへヒラッと片手を挙げた。
あ、スーツ。
見慣れないネイビーのスーツ、バーガンディーのドット柄ネクタイ。黒色の革靴もきれいに光沢を放っているし、いつも見かける夜のボサついている髪もワックスで丁寧にセットされている。
いつも会うときと違って、オンモードの彼。
……このひとも社会人なんだ。
きちんとしているところを初めて見るから、なんだか変な感じ。
「ごめんね、仕事なのに変な連絡しちゃって」
「ほんとに。おまえいい度胸してんな」
「うっ、無視してくれてもよかったんだよ」
「あー まあ、そうしようとは思ったんだけど、」
マグカップで提供されたホットコーヒーを一口啜って、彼はこう続けた。
「割り切り上手なおまえからこんな昼に連絡くるってことは、おまえにとって必要な連絡だったんだろ?」
マドラーを動かしていた私の右手がゆっくりと止まった。
「……なんで」
「おまえから連絡くるときはきちんと俺の退社時間後だからな。あと俺に一切奢られない対等性なところを見ると、そりゃ分かるだろ。俺とシオリの仲じゃん」
「……そうだね」
どうしよう。
なんで、こんなに泣きそうなんだろう。
私、無視してくれていい存在なのに。仕事の休憩に時間つくってくれたこと。そんな風に見ていてくれたこと。
―――――すごくうれしい。
「バーカ」
私の表情を見てか、知らずか。
慣れた手つきで私の肩を抱き寄せて。
「連絡くれた理由は聞かねぇ。その分この昼飯は付き合え」
「…うん」

あー、もう。居心地いいなあ。

パッと手を離すと残りのチキンドックに手を伸ばすナオの姿を見て、心は軽くなるが、頭はそうもいかない。

頭から離れない、遭遇した今朝の言葉。
“メッセージ、送ったんだけど。まだ見てない?”
“去年の夏、ひどいことした。ごめん”
“俺、本気でおまえのこと好きだったんだよ”
“みなみとは別れる”
“もう1回、やり直してくれないか?”

ぶっきらぼうな彼が私に向き合って、言葉を振り絞ってくれた。

終わった話がごちゃごちゃと糸を絡め合う。
「――――あれ、栞じゃん」
二口目のホットコーヒーを、喉に通す直前。
呼ばれたくなかったそれに、気づかれてしまった。
「……」
肩につくくらいのモカアッシュのストレートな髪、白色のニットに、スキニージーンズ、ブラウンのレースアップブーツは7cmほどの高さを備えている。
視線だけ、彼女に向ける。言葉は発さない。彼女の出方を伺う。
「ねえ、恭介から連絡きた?」
私の記憶の端にいる彼女は彼のことを"きょうくん"と甘い声で呼んでいた。それが今、挑発的な声色で彼の名を呼び、躊躇なく話題を振られる。
「……知らない」
せめて隣のナオを巻き込まないように、彼は他人だという態度で、しらを切る。
「じゃあ私のメッセージは?今見ても、既読ついてないじゃん。そこにスマホあんのに」
器用に右手でスマホを操作して。証拠にほら、と言わんばかりに自分と私のトーク画面を見せる。左人差し指は、テーブルに置かれたホットコーヒー横に投げられた、私のスマホを指し示しながら。
「……時間がなくて、今見ようと思ってたの。ごめんね」
形だけの謝罪。早く、早くこの場からいなくなってくれ。
「じゃあこっちのが早いから今言うけど。」
右手にあったスマホジーンズの後ろポケットにしまい込み、彼女の視線を全身が受ける。
「恭介、返してくんない?」
「…、は?」
身に覚えのない言いように思わず素の疑問がこぼれてしまう。
「あの人にあんたが忘れられないから別れてって言われたんだけど。ねぇ、付き合ってたんでしょ?わたしが、恭介のこと好きだってずっと言っていたの、しおりは知ってたのに?」
グサグサと、心をえぐる鋭い言葉。
そんなの知らない。
付き合っていたのだって、1か月だった。
なんならあなたのほうが私より長い時間を彼と過ごしているじゃない。

「ねぇ、なんとか言ってよ」
「っ、……」
言葉が、でない。
否定したいのに、そんなの知らないと言いたいのに、目が怖くて何も言えない。彼女の瞳はトラウマを集約している。
「あのさ、」
振ってきたのは、私の隣からだった。
「……だれ、あんた」
「喧嘩するなら勝手にすればいいけど、ここ、お店だから。俺みたいに仕事の昼休憩で立ち寄ってるオトナもいるわけ」
「……だからなに」
「休息時間に隣でガキの男絡みの喧嘩を繰り広げられたら、胸糞悪いっつー話。それ、飲み終えたならさっさと出て行って」
ナオが聞いたことのない声でみなみを威嚇する。
唸るような低いテノール。このひと、こんな声も出せるの。
「……っ、ガキじゃないっつーの!しおり!場所、」
「この子まだコーヒー残ってるじゃん。残して出てこいなんて、店に失礼なこと言わねぇよな?オトナならさ」
「っ……! しおり!メッセージ返してよね!!!」
カッとなったみなみはそんな大声を残して、手にしていた紙カップを店員さんに押し付けて慌ただしく出て行った。
「……ナオ、」
「おい俺らも出るぞ」
「え、」
コーヒーが残っているからという理由で店内に留まらせてくれたくせに、なんて矛盾だ。

ナオが本気で帰り支度を始めるから急いでマグカップに残ったコーヒーを流し入れる。
「このあと授業は?」
「……1つあるけど、出席とらないし学校戻りたくないから家帰る」
「じゃあ近くまで送ってやる。俺も外回り終わって昼食べたら帰社するだけだったから、ついでだ」
ナオがマグカップの乗ったトレーを返却する際に「大丈夫ですか?」と店員さんに声をかけられる姿を見て、店内の視線が私たちに集中していたことに今さら気づいた。

「お騒がせしてすみません」
まったく無関係な彼にそんな謝罪を言わせてしまって、言葉が出ないうちに促されるまま、助手席に乗せられる。

営業車なのか夜に見かけるものとは違うけど、こんな明るいときに彼の隣に乗るなんて思ってもいなかった。
彼は手際よくエンジンをかけて、迷いなく発車させる。
「シオリ」
「、なに」
「気が変わった」
「なにが?」
「今晩空けとけよ」
「……今日は厳しいんじゃないの」
先ほどの答えを思い返す。
だからこのお昼に時間をくれたんじゃなかったの。
「そりゃ昨晩は睡眠じゃなくて仮眠だったからな、今日はぐっすり寝たかったわけ」
あ、……そっか。彼が連続で会わない理由の1つを少し垣間見れた。
「だから今日は泊まりの準備しとけよ」
「えっ」
ナオは絶対わたしとはお泊まりをしたことがなかった。
昨日のようにどんなに遅くなろうが、必ず私を家まで送ってくれた。
「まあ、今日はシないけど。眠い」
「……じゃあなんで。ナオが私と会う理由ないじゃん」
「あるよ」

即答だった。
気楽だから、目的が単純だから会ってくれていると思っていた。だからそれをなしで会う選択はないと思っていた。

「あるって、」

どんな理由?―――と続くはずだった言葉は無機質な機械音で憚られる。

鳴り止まない機械音の正体を手に取り、赤信号のタイミングで彼はスマートフォンの画面を確認する。

「悪い、仕事の電話だわ。ちょっとそこのコンビニ停めて話していい?」

「あ、うん……」
だからここで彼が即答する理由がこのときは分からなかったのだ。

星が降り注ぐ午前2時 ③

あー……
目が覚める。ここが自分の部屋であることは間違いない。
時刻を確認すれば9時50分。

大学まで徒歩7分という売り文句でこの学生マンションへの入居を決めた。今から支度すれば10時40分からの2限には時間を持て余すくらいには間に合う。

今日は2限と3限の2コマ。必修科目の兼ね合いで昼休みを跨ぐ。

けど、今日は丸野をはじめとした学科の友達とは授業が被らない日だし、お昼どうしようかな。1回食べに家帰ってこようかなあ。
気合いを入れて起き上がり、支度を始める。
昨晩、傍にあった温もりは当然ながら消えている。
――――しかし。
「あの人の煙草の量どうにかならないかな」
そんな独り言を呟いても反応をしてくれる者はいない。
お気に入りのグレーのチェスターコートに染み付いた彼の置き土産を消滅させるように、消臭スプレーを振りまいた。
「いってきます」
煙たいにおいが染みついたグレーはベランダで一時乾燥。代わりにフローラルなかおりに包まれたキャメルのダッフルコートを羽織り、家を出る。
両親からは挨拶については厳しく育てられたせいで、一人暮らしをしている今でも、誰からも反応はないと分かっていても癖で「いってきます」と口に出してしまう。「ただいま」も「いただきます」なども同様だ。
別に悪癖ではないからいいか、と思ってそのままだけれど、ナオと初めて食事をしたときに手を合わせて「いただきます」と呟いたとき目を丸くされた覚えがある。その反応にこっちが驚いたくらいだ。
マンション3階にある自宅からゆっくりと大学へ向けて歩き出す。
イヤホンをして、好きなバンドの曲をウォークマンから再生する。それができたら次はスマートフォンを確認。
結局、昨日は深夜2時頃ナオに家まで送ってもらったあとすぐに寝てしまってスマホを確認できていなかった。

ナオは絶対にお泊まりはしない。

夜遅くなろうが帰る。

その帰り道に腹減ったーと言って簡単なファミレスだとか牛丼だとかを食べて帰ることもある。

昨日はまっすぐ帰って2時だったから、彼が自分の自宅に帰宅したのはもっと遅い時間だったろうな。通知チェックしたら一言メッセージ送っとこう。

スマホのロックを解除して、通知欄を確認すれば、ゼミのグループトークが動いていたり、SNSのどうでもいいニュースの新着通知だとかが来ていたり。と、新着順にスクロールして返信が必要ないものには既読だけつけ、必要なものには相手がほしがっている内容を返す。そうして徐々に受信時間が古いものを確認していくと。
「っ、」
見たくもない、名前が二つ。
ああ、そうだ。一つは長文メッセージ来ていたっけ。

かつて所属していたサークルの同期“まつもとみなみ”からの通知で、一瞬で現実に引き戻される。自分がしたこと、今の自分の立ち位置。
そして、もう一つの名前。
「“おまえと話したい”って、」
絵文字も記号もない、シンプルな一文。通知欄でも全文が確認できるたった8文字に込められたその真意は読めない。
今さら何を話したいって言うんだ。
送り主は恭介さんだった。

みなみの彼氏。私の、元彼氏。
「あ~!栞!!」
スマホ画面にしかめっ面を向けていると、背後から聞き覚えのある声が。
「わ、真子」
声をかけて来た真子は、昨年末まで所属していたサークルの同期だった。
このタイミングで、真子。
私の知らないところであの2人、また何か起こしているんじゃないか……と疑いたくなる。
みなみも、恭介さんも同じサークルの仲間だった。
「栞と会うの久しぶりだね」
「そうだねぇ……学部違うもんね」
私がみんなと会わないように避けていた、ということもあるけど。
そんな私の心を知ってか知らずか、真子は投げかける。
「今ねー……みなみちゃん大暴走期なの」
「、……」
呼吸が止まりそうになった。
あの子も、彼も、私に連絡をよこしてきた時点で何かあると思っていたけど……
「……変わってなくて安心した」
「よくないよぉ~~ とばっちりひどいんだから。いい加減大人になって!ってかんじ」
真子は顔を覆うと共にああ~~と困った声を出す。
このオーバーリアクション、事の大きさが伝わりづらいから私は前から苦手だ。
「このくそ忙しい週間にかまってちゃん発動は本当に困る。やめて欲しいわ」
「もうすぐ“年忘れ”だもんね」
私が所属していたサークルは所謂イベサーというもので、時季ごとに学内生向けの大きなイベント企画・運営をしている。
12月の第一金曜日は学内交流会という目的の元、“年忘れ師走会”と称して学内の広いイベントスペースを貸し切って食事・ゲーム・ビンゴなどお楽しみ企画を開催している。
先生や職員も参加できるような、大学公認イベント。
まあ学校を出たあとは各々二次会が始まったりして、大学生らしいこともしているんだけども。
「そうだよ~ 本番1週間前にこんな私情挟まないでほしい。恭介さんと2人で解決してって」
ここにきて彼の名前が出てきてドキッとする。
「……喧嘩するほど仲が良いってやつじゃないの?」
「さあ~?噂によれば今回の喧嘩の発端は、恭介さんの元カノ絡みらしいよ」
「っ、」
真子は、知らないはずなのに。
こういう言い方するということは、その元カノが私だと分かったうえで言っているのか……
そうだよね。同期には女子が多いし、この手の話が一瞬にして広まるのは無理もない。
「そうなんだ早く仲直りするといいね」
当たり障りのない言葉を告げておく。
みなみを選んだのは恭介さんなのに、都合のいいように私を突っ込ませないでほしい。
「私、次の授業A棟だから行くね。真子あと1週間がんばってね!」
本当はすぐ目の前にあるE棟での授業なのに、早くこの場から逃げ出したくてわざと一番遠い棟へ向けて歩みを進めた。
恭介さんと付き合っていたのは大学1年の夏だった。
そう、夏だった。私は彼と過ごす秋を経験したことがない。
初めて携わった夏季イベントが終了して、前期試験も終わって、夏休みに入りかかった日のことだった。
夏季イベントで私は恭介さんと関わる機会が多かったこと、まだ大学生のノリにも不慣れだったこと。いろんな大学生マジックの末、私から告白したらオッケーしてもらえたのだ。
先輩たちを見てきてサークルメンバーに気を遣わせるのは嫌だから、と言った彼に従って周りには内緒のお付き合いだった。
あの時の私は有頂天で、彼に嫌われないように深く考えずに了承した。
だから胸の内で幸せを感じていて。たとえばスケジュール帳の付き合った日付にはハートマークを書いたりとか、とにかく浮かれていた。思い出すだけでも恥ずかしい。
でも、後期授業が始まる前に振られた。

「ごめん、やっぱり付き合えない」

幸せの頂点からどん底への急降下だった。
誰にも話すことなく幕を閉じた、まさに夏の恋だった。
―――と思ったら、10月。彼がみなみと付き合い始めた、ということをサークルの同期から聞いた。

「7月イベントの時からずっと両想いだったらしいよ」
私とのことは内緒だったのに、みなみとのことはすぐ公にして、そんな噂がしっかり内輪に流れて。
あー、私キープだったのかな、なんて。
ショックだった。サークルにも行きたくなかった。
サークルルームで2人が仲良くしているところなんて見たくなかった。
でも時は悪く、私はその頃―――ちょうど1年前の年忘れの企画発起のタイミングで、運営の部門リーダーになっていた。
みなみも、同じ部門だった。
みなみは部門の先輩たちのことが大好きで、先輩のように活動したく、この部門への配属を決めた。
その中で、私がリーダーを務める。私が彼女に指示を出すポジション。
部門内で、立候補制で決めた役割で私以外に立候補がなかったからすんなり決まったのに、先輩への憧れと独占欲の強い彼女はそれだけでおもしろくない。

"ーーーそれに、今きょうくんと付き合ってるの、わたしだしねっ"

蘇る声色、リズム、こちらへの敵意を含む瞳。

いつ知ったのか私を恭介さんの元カノとして認識し、敵対心を隠すことなく関わるようになった。
至急返信がほしい事柄に対し、故意に連絡を無視されることがあった。
SNSにも意味深な投稿をされるようになった。誰とは明記せず、でも内容からしてサークルメンバーには私のことだと分かるような内容。
とてもやりづらかった。とてもしんどかった。
でも誰にも相談できなかった。

大丈夫、できる。

この二言が合言葉だったけど、イベント当日を迎えて、すべてが吹っ切れた。

無事に当日運営、片付け、次回への反省会などすべて終了した日。
私は代表にサークルをやめることを伝えた。
誰にも相談しなかった。運営準備の際、その活動ぶりを評価してくれた代表にはすごく残念がられた。
それを伝えたとき、代表の隣には恭介さんも居合わせていた。
正直言ってこれは計算だった。最後くらい、彼に動揺を与えたかった。
動揺されなくても、何か、当てつけたかった。
―――彼はただ静かに私を見つめていただけだった。
「……はぁ」
自然とこぼれたため息に、まだ恭介さんのこと引きずってんのかなって笑えてくる。
人を好きになることが怖くなったのは事実だ。
サークルをやめてからは授業とアルバイト中心の生活になった。
それでも夜ひとりの家に帰ると、あの敵意ある瞳を思い出して眠れなくなった。
やめてすぐ訪れた長い大学の春休みは昼夜逆転しようが問題なかった。飲食店でのアルバイトもシフトが2週間に1回の提出だったから体調と相談して調整しやすかった。

それでも、学年が1つ上がって、サークルをやめて3ヶ月が経つというのに2年の前期授業は1限にある必修科目ですら行けなくなった。

彼女と学部が違ったこと。彼と学年が違ったこと。

それらだけは救いだった。
前期の成績発表で行けなかった授業の単位を落としたとき、ヤケになってチャットアプリを始めた。そこで、ナオと知り合った。夕焼けが染みる夏の終わりだった。
彼は年上ということもあったし、前提が割り切った付き合いだから、彼といるときが一番心安らいだ。夜も随分眠れるようになった。あんな社畜を相手に悔しいけれど。
私の処女をもらってくれたのはナオだった。だからかな。他にも関係つくったりしたけど、結局現在も関係が続いているのはナオだけだ。
恭介さんとは一線をこえなかった。1度だけ、キスをした程度だった。
その行為をねだったのも私からだったから、彼はきっと最初から私を好いていなかったのだろう。同情とか、暇つぶしとかで、付き合ってくれたのかな。
学内の放送機器から機械的なチャイムがなる。授業開始の合図だ。
あー 2限……
遅刻だけど、欠席するより十分だ。行こう。出席点必要な授業だし。行かなきゃダメだ。
そう気持ちを律してE棟に戻ろうとしたとき。
「―――栞?」
声をかけられた先にいたのは、今ずっと思考を支配されていた人物で。
「きょうすけさん」
彼にただ名前を呼ばれただけで、胸が高鳴るなんて。
ああ、もう。最悪な1日の幕開け。

星が降り注ぐ午前2時 ②

「なんだぁ?そのブサイクな顔」
時刻は22時を回っていた。運転席に座る彼は私服。一度帰宅して着替えてくれたらしい。
「今日小テストがあって疲れてるのー。また来週も別の授業に中間試験があるしー」
だから、と理由を助手席で車内に流れるBGMを選曲しながら答えた。
「いい気味だな。大学生しっかり勉強しろ」
「うるさい社畜
社畜じゃねーよ。ただの社会人だ」
――――彼について私が知っていることは数少ない。
名前はナオ。本名かどうかは知らない。
性別は男。同性だったら会ってない。
年齢は25歳。私より5歳年上。
職業は会社員。営業っぽいことをしてるって。
喫煙者。好きな銘柄はメビウス
「つうか、なんでおまえ今日タイツなの」
「もう11月だよ?寒いからに決まっているじゃん」
「ニーハイは?」
「寒いからイヤ」
「ニーハイは?」
「短いの履くのは寒いからイヤ」
あ、あとこの男は脚フェチだ。
ニーハイが特に好きらしい。変態だ。
「俺がこの前買ったニーハイ履いたときは“意外とあったかい!”って言ってたじゃん」
「それはその日ミディ丈のスカートだったから」
「ミディ丈ってなに」
「……膝が隠れるくらいの丈。この前の、ベージュのやつ」
「……あー、あれね。はいはい」
分かった分かったって言うけれど絶対分かっていない。
以前私と会ってから今日まで、他に何人の女の子を抱いたのか。
「おまえ、あれから誰かとシた?」
“あれから”は彼と最後に会って以降。
「生理だったからしばらくしてない」
「じゃあ久しぶりか」
「そーそー」
「よし、ドンキでニーハイ買っていくか」
「っ、は?!」
予期せぬ言葉に間抜けな声が出る。
そこまでニーハイが好きなのか……
「ニーハイ買っても、今日のスカートの長さと合わないよ」
今日のスカートはボルドー色の膝上スカート。だけれども、ニーハイが履けるほど短い長さではない。
「下着姿にニーハイも好きだし」
「……えっち!!」
「そうだよ、知ってるだろ」
「……知ってる!!」
彼と出会ったのは、スマホのチャットアプリだった。

いわゆる出会い系と呼ばれるものだろう。
誰がそれをどんな風に使おうが、結局は自己責任なわけだから責任のとれる範囲で本人の好きなように使ったらいいと私は思う、からこそ私は自由に使っている。
彼以外の男とも何度か会った。ホテルに置き去りにされたとか、まあまあ痛い目に遭ったこともある。
そんな中で、こういうことを始めた5ヶ月前の夏休みから長く定期的に会っているのは、この、ナオという男だけで。
必要以上の関係にはならない。お互いの求めている行為をするための、都合のいい関係。
それ以上を望まない、楽な関係だ。
今日も彼の前で私は“女”になる。


「っ、」
げ。
シャワーを浴びて濡れた髪をタオルドライしながらベッドの上で、先ほどから何度も振動していたスマホを確認した自分の顔があからさまに引きつったのが分かった。

「おいまたブサイクな顔してんぞ」

「……」
すぐに私の表情の変化に気づいた彼の言葉に返す余裕もないほど、私のスマホには見たくもない差出人からのメッセージが届いていた。
どうしたものか。通知画面では途中までしか読めないし、でもこのメッセージ長文っぽいし……でも既読はつけたくない。でもこれは、返さなきゃまた面倒なことになる。
「―――シオリ」
「っ、きゃっ」
耳元で名前を呼ばれて、ぞくりと体が跳ねる。
さっきまで少し離れたところで煙草タイムだったくせに、気づいたら距離を詰められていて。後ろから抱きしめられる体勢。
「煙草吸ってたんじゃないの、」
「吸い終わった」
「……煙草おいしい?」
「どうだろな」
腰にあてられた右手が半周して手前に回されたかと思うと瞬時にぎゅっと引き寄せられ、彼との距離はもう数ミリ。
「……なに、」
「もういっかいしていい?」
「……さっきした。明日も仕事だし帰らなきゃいけないでしょ」
「うん。だから早くしよ」
「……」
黙って彼の背中に手を回すのが合図。
ああ、また私は快楽に溺れる。

名前はナオ。性別は男。年齢は25歳。
職業は会社員。喫煙者。好きな銘柄はメビウス。あ、あと脚フェチ。
それだけしか知らない彼に、抱かれる夜が私は好きだ。

 

 

 

――――新着通知2件
まつもとみなみ:返事ほしいんだけど≫
≪恭介:おまえと話したい≫

 

星が降り注ぐ午前2時 ①

女としてどうなんだ、っていう行動をしているのは分かっている。自覚している。そこまで堕ちてはいない。けれど、自覚をしているくせにその行動を続けている私は何とも悲しい人間だ。
「げっ、今日小テストあるじゃん」
グレーのリュックをおろして、ボルドーのマフラーを外すと現われる金髪のショートカットを揺らしながら丸野は濁った声を出す。
「先週の授業で先生言ってたじゃん。小テストやるって。しかも論述」
「え、論述!?」
「でも持ち込みありだから何とかなるでしょ~ レジュメもあるし」
「ええええ!?持ち込みあり!!?なのに論述!!!?」
「持ち込みありで穴埋めだったら、みんな今必死じゃないって……」
私たちの周りに座っている学生の複数人は今必死に机とにらめっこしてペンを動かしている。
そうだ、論述式の小テスト。最低字数は指定されていて、尚且つそれは課題内容と共にしっかり先週発表されているから、あらかじめ文章をまとめておかないと時間内で書き終えることができないという事態に陥る。
字数も課題も発表されている論述試験。かなり甘いけれども、その分評価はかなり厳しい。そりゃ当然か。
「ま、レジュメがあればある程度は書けるでしょ~」
「栞……私の授業態度をいつも隣で見てて言ってる……?」
「……空欄書きこんだやつあるよ」
「神様仏様栞様!!!!ありがとう!!!」
青色のクリアファイルからこの授業で毎時間ごとに配布される書きこみ式のレジュメを取り出して彼女に渡す。「ここと、ここは必ず出すって」と重要箇所を指摘しながら。
丸野、こと丸野知里とは大学で知り合った。同じ学部で同じ学科。それに加えて名字が真矢と丸野で学籍番号が近いこともあって大学で一番仲の良い友達だ。
そんな丸野は一言で言うと社畜だ。授業がないときはいつもアルバイトをしている。しかも居酒屋とコンビニで掛け持ち。稼いだお金はすべてヴィジュアル系バンドに貢がれていく。
バイト、バイト、バイト、ライブ、バイト、バイト、ライブ……というような生活をしているため、授業時間は彼女の睡眠時間になる。
この授業は先生がパワーポイントを使って説明していく一方、学生は配布されたレジュメの空欄箇所に当てはまる大事な単語や説明を書きこんでいく授業形式。当然睡眠の世界にいると訳が分からない。手元に残るのは空欄ばかりのレジュメ。説明が一切ないから何のことやら。今の丸野もこんな感じだ。
「……え、あれ。今気づいた」
ふと言葉を漏らした丸野。その視線の先を辿ると、彼。
「ああ、本当に今更じゃん」
あはは、と笑いながら昨日作成した自分のカンニングペーパーを確認する。
こちらの視線にまったく気づかず、友達と焦っている彼。どうせ丸野と同じく授業中寝ていてレジュメがレジュメの意味を成していないのだろう。半年前だったら、ここで助け船を出したけど、今は違う。
もう私と彼は、他人だからだ。
「そっかあ。でもそんな淡々とするくらい吹っ切れたならよかったじゃん」
これは吹っ切れたと言って、いいのだろうか。
「……うん」
<―――はい、じゃあ静かにして>
いつの間にか壇上にいた先生がマイクを通してこれから行われる小テストの説明を始めた声に、私の小さな相槌はかき消された。

小テスト。解答できた人から開始30分後に退室可。
カンニングペーパーをしっかり用意していた私は退室許可が出るとすぐに答案用紙を提出して教室を出た。次の授業まで1時間強。今日の授業これが最後だったらもう帰れたのに。……まあ、一人暮らしの家に帰っても暇だから授業があってくれたほうが実は嬉しい。
家に1人だと、いやなこと、思い出すし。
大講義室前にある自販機で温かいココアを購入して、近くのベンチに座って丸野を待つ。
次の授業も丸野と一緒だ。次で使う教室も今はまだ3限の授業の途中だろうし、ここで丸野を待っていた方がいい。
念のため、丸野に「教室前で待つ」というメッセージを送信して、暇つぶしにSNSをチェックする。タイムラインには確実に授業中と思われる同級生のつぶやきだとか、好きなアーティストの最新情報だとか、たくさんの情報であふれている。
その中で見つけたのは。
数人の男女が写っている写真。同じお揃いのパーカーを着てポーズも揃えて。本文には“newパーカー”の文字。
その写真の中には、先ほどの彼もいた。
っ、……うっとうしい。
ああ、私が1年前まで居た場所。私が1年前まで好きで、大切に思っていた場所。
ガチャとドアが開く音がして、丸野かと思ってスマホから顔を上げれば、
「っ、」
「!」
お互い目が合う。

ああ、なんでこのタイミングで。
「おっ 栞じゃん。久しぶりだな~ 元気してるか?」
彼の後ろから顔なじみの先輩がこちらに気づいて声をかけてくれる。在籍中はよくしていただいた先輩だったから無視はできなくて。黙って目を逸らすこともできなくて。
「っ、おつかれさまです。将生さん、…きょーすけさん」
何もなかった。私は円満に引退したのだ。
彼ら3年の先輩より先に、私は自由になったのに。いまだにしばられる繋がり。
「……おつかれ」
彼はぶっきらぼうに返事をしてスタスタと階段をおりていく。将生さんも私に「おつかれ〜」と軽やかに手を振ってそのあとに続いて行った。
彼がぶっきらぼうなのは今にはじまったことではない。はじめて会ったときからあんな感じだ。これが通常運転。
それでも、……私と彼の間に一時期恋人関係という繋がりがあった以上、あのぶっきらぼうには気まずさしか感じない。
……ああ、もう。なんで今なんだ。
ぎゅ、とスマホを握りしめる力が強くなる。
それとほぼ同時にスマホのバイブレーションが振動する。通知画面を見れば。……こっちもこのタイミングか。

 

 

――――新着通知1件
≪ナオ:今夜会える?≫

星が降り注ぐ午前2時

 

暗闇の中に響く布擦れ。聞いたことのない甘ったるい声。荒れる吐息。
―――――ああ、今日もか。
頭の隅っこでそんな思いがふと現れて、でも、すぐに消しゴムをかける。
いいの。これでいいの。けじめをつける日は、もう決めているから。
今はこの瞬間を求めるの。体裁も、関係も、すべてすべて忘れるの。
覆いかぶさる彼の背中に両手を回して、――――私はその一瞬を迎えた。

 

 

 

『星が降り注ぐ午前2時』

 

 


干渉しない。干渉されない。
そんな関係。
ぐらりと傾くことはない、楽な関係。

もうすぐその関係の終焉が訪れる。

 

 

 

 

 

あらすじ

大学2年、1年前の夏休みだけ付き合った先輩のことを引きずった勢いで登録したマッチングアプリで出会った男と逢瀬を重ねる夜は気付けば冬まで持ち越していた。