「……なんでひまりにあんなこと聞いたわけ」
今日のすべての授業が終わり、久しぶりに部室でベースに触れていると早瀬が声をかけてきた。
「おお、おつかれ」
「いやいやそれ質問の答えになってないから」
呆れた顔をした早瀬。
こいつは1年の頃から俺がひまりのことを好きだって知っている。
「俺、学祭のとき言ったじゃん。別れたらしいよって」
「いやいや早瀬もどうせ噂の又聞きだろ。こういうのは本人に聞いておかなきゃ俺は納得できない」
「………」
返事をせずに、早瀬は俺の隣に座る。
「もう1つのバンドは落ち着いたわけ?」
「おー おまえが高熱で苦しんでいる間にライブは大成功で終わりました」
学祭後、俺は外部で組んでいるバンドのライブに向けてひたすら練習していた。授業が終わったらすぐライブハウス。時々、バンドメンバーの防音完備の家。
だからしばらく軽音部には顔を出せていなかったし、早瀬とも部内バンドで同じなのにしばらく会っていなかった。
「ひまり、見に行ってたらしいよ」
「っ、え」
「つーか俺が行けなかったチケットひまりに渡した」
「早瀬……!」
「安達が途中ジャンプの着地失敗しそうになってたって笑ってた」
「……」
恥ずかしい。そんな姿見られていたのか。
つーか、
「ひまりからそんな連絡来てなかったけど」
「それは俺は知らない」
なんだよ。……でも、ひまりはライブの感想は直接言いたい派だ。
さっきの授業で久しぶりに会ったとき、そんな話題を振ってくれたのかもしれない。しかし俺が“意地悪”を言ったあと、彼女のテンションは明らかに下がっていた。
自業自得ってやつか……
「ひまりの機嫌とっておけよ」
彼女の変化に、さすがの早瀬も気づいていたらしい。
あれだけ分かりやすく落ち込んでいたから当然か……
――――ひまりと先輩は去年の今頃から付き合っていた。
俺が意識し始めたのとほぼ同時くらいに先輩がひまりを奪っていったから俺からしたら衝撃が半端じゃなかった。
けれど、先輩は前々から部内でも宣言していた通り、3年前期―――正確にいえば2年の3月から3年の9月までの半年間アメリカ留学に行くことになっていた。
それはひまりも承知していた。ひまりも、先輩も、英米学科。留学にも関連してくる学科だったからだ。学科が学科なので授業単位になる留学。休学扱いではない。
……ここからは俺も早瀬から又聞きした話だが。
最初のうちはひまりも先輩もこまめに連絡をとっていたが、次第にその頻度は減って行き。
しまいには向こうでの生活が充実していたらしい先輩が3か月留学延長を決めたのをきっかけにメッセージで“別れよう”と来たのが、2人の恋人関係の終幕だったらしい。
しかし、現状、付き合っていたときにもらったらしい先輩が持っていた赤いヘッドフォンとお揃いのそれをひまりがまだ使っているというところを見ると、彼女はまだ未練があるらしい。
そんなの、さっさと捨ててくれればいいのに。先輩なんか二度と日本に戻ってくんな。
―――なんて思う俺は、かなり自分勝手だと思うけれど。
「とりあえずひまりにメッセージ送るわ……」
「そうしとけそうしとけ」
早瀬の言葉に背中を押されてアプリの友達一覧から“まちだ ひまり”を探し出す。
≪今晩メシ行こ。奢るし≫
すぐに既読がついて、
≪いく!!!!≫
そんな返事が来たから多分俺の財布は今晩さらに薄くなる予感がした。
バイトがあると言って早瀬が帰り、一人になった部室で5限があるというひまりを待っていると、そろそろ5限が終わりそうな時間に園香が部室にやってきた。
「あれ、安達じゃん」
「園香。久しぶり」
ひまりと同じバンドでベースをやっている園香。俺と同業者だ。
「生きてたの?」
「かろうじて」
「ひまりに意地悪言ったでしょ」
「え、」
淡々と切り替わる話題。しかもひまりのことだ。
なぜ知っている……、ああこの5限の授業一緒だとか以前聞いたような気がする。
「あまりいじめないでよ。あの子に先輩の話はタブー。軽音部黙認のことでしょ」
「あー はいはい」
先輩たちもひまりと先輩のことは知っていて。別れ方も知っていて。
彼女の前でヤツの話はしてはいけない、という気遣いが生まれている。先輩たちもひまりサイドだ。
「今日いくら持ってんの?」
「おまえは話が変わりすぎなんだよ。いくらって、金?」
「そうそう」
「……万札はさっきおろしたけど」
「じゃあデザートも余裕で食べれるね。よかった」
「……園香も来るわけじゃねぇよな?」
「行くわけないでしょ」
バッサリ。その確認は一体何なんだ。
「アンタが外でベース鳴らしてたおかげで、ひまり最近ごはん食べてないのよ」
ひまりは一人暮らしだし、1年の頃から金がないときは絶食をしていてそれを知った俺はよく彼女を晩飯に連れ出していた。ヤツがいたときはそれはヤツの役目に代わって行ったが、向こうに行ってからもそれは俺の役目に舞い戻ってきた。
ひまりと食いに行くメシはうまい。好きなバンドもほぼ一緒だから話も弾むし、何より美味しそうにごはんを食べるひまりを見るのが好きだった。
「え?さっき会ったけど全然そんな感じしなかったけど」
「あの子今日ダッフルコート着てたでしょ。中身そこそこ痩せてるから。貧相なお胸がさらに貧相になっているから。だから鶏肉食べさせてやって。あと冷やしたらダメだからあったかいもので。お鍋とかいいね」
「なんでおまえが俺とひまりの今日の晩飯決めてるんだよ」
「お鍋だと野菜もあるしいいよね」
「聞けよ」
園香は表情に出づらい。しかも淡々と喋る。そのおかげでよく誤解されるのだが、ひまりと仲良くなってからは彼女のおかげで園香の表情はかなり柔らかくなった。
園香本人もそれは実感しているようで、彼女はかなりひまりのことを溺愛している。
「じゃあ、今晩ひまりのことよろしくね」
部室に置いていたベースを背負った彼女は俺に向かってそう言うとスタスタと部室を出て行った。
園香には俺の気持ちのことを話していないが、気づいてはいるのだろう。分かりづらいくせに人の動きにはとてつもなく敏感な女だ。
とりあえず園香が部室に寄ってきたということは、5限が終わったという証なのだろう。
ガチャリ。扉が開く音。
「あだっちゃーん、おまたせ~」
それと共にひまりが部室に入ってきた。
「おつかれ。メッセージくれたら門のとこまで行ったのに」
「ううん。ちょっと部室に忘れ物したから寄りたかったの」
がさごそとクリアファイルが並ぶ棚を彼女は探り始まる。
そうこうしていると、また扉が開く音。そのあと響いた声は同期たちのものだった。
「おー!安達じゃん!!ひっさしぶりだなオマエ」
俺に気づいた片岡が大声をあげる。相変わらずのデカイ声。さすがボーカルやってるだけあって声量がそこそこあるよなあ。
そんな片岡は学祭をもって引退した3年の先輩を引き継いでこの軽音部を引っ張っていく部長だ。
「安達は単位大丈夫なわけ?」
行く先々で単位の心配をされる。そこまで堕ちてはいない。休むときはちゃんと計算している。
「失礼な。俺ゼミとかはちゃんと行ってるよ」
「いやでもあんまり同じ授業で見ないし」
「……ライブ終わったからもう行くよ」
「あー そっか!おつかれ!」
確かにライブとかが立て込んでいた時期は行く授業もまちまちだった気がするが。
出席は大丈夫なはずだ。……あとでネットの出席表見ておこう。
「つーか安達に言ったっけ?」
「なにを?」
「今年のクリスマスライブ!と、そのあとのクリスマス忘年会!」
ああ、今年もそんな季節が来たのか。
「今年も学内のステージ借りるの?」
「そうそう~ クリスマスライブ用のバンドもあみだで決めるし、そのあとの忘年会も会費徴収しないといけないから出欠教えて」
「いやアプリでやれよ」
「やったけどおまえ反応してないじゃん」
「……」
言い返せない。そういえばなんか軽音部のグループ動いてたな……
忙しすぎて既読だけつけてたような気がする。
「今年は去年不参加だったやつらとかも参加するし!たとえば後ろでごそごそやってるひまりとか」
「あーはいはい。俺も今年参加で」
「よっしゃ!さんきゅー」
今年はひまりも参加するのか。去年はヤツとデートだったらしく、不参加だった。
「3年の先輩でくりぼっちな人も参加してくれるらしいし!」
「おまえ先輩の前でその単語使うなよ」
「あ、くりぼっち?大丈夫、俺はそこまで甘い男じゃない」
いや、詰めが甘い男だと思ってるから忠告しているんだけど。
「あっ、あった!」
すると、後ろからひまりの嬉しそうな声が聞こえる。
「何探してたわけ?」
「ピアノのクリスマス曲集~ せっかくだから何曲か練習しておこうと思って」
「かなり乗り気じゃん」
「せっかくだからね!」
ニコニコ楽しそうに楽譜を手にするひまり。嬉しそうで何よりだ。
「メシ行くか。鍋でいい?」
「えっ!あだっちゃん、なんで私が食べたいもの分かったの?」
……そういうことか。さっきの園香のあれはこういうことか。
いろいろさすがだ、あいつは。
「ちょっと距離あるし、バイク乗るけどいい?」
「いーよ!帰りもマンションまで送ってください!」
「はいはい」
言われなくてもそのつもり。
「安達ー!ひまりにたくさん鶏肉食わしたって!」
「片岡黙って!!!!!」
げらげら笑いながらそんな冗談を告げた片岡に見送られて、俺たちは部室を出た。
俺は実家通暮らしだ。二輪の免許も車の免許も長期休みを利用してすでに取得済みだ。だが、大学は車通学ができないので、寒い中でもバイク通いだ。
「はい、メット。寒いと思うけど我慢してな」
「うん。これくらい大丈夫だしいーよ。いつもありがとうね」
大学前にもファミレスは数件あるが、今回のメニューが鍋なだけあって少し離れたところにある繁華街に行かねばならない。いつもだったらその近くのファミレスで済ませるが、たまに遠出をするときはいつも彼女をバイクの後ろに乗せる。
「よかったー 今日スキニーで来てて」
「スカートだったら捲れるしな」
「そうそう」
「……あのさ」
「ん?」
彼女もバイクに跨ったのを確認して、小さく呟く。
「昼、ごめんな。無神経なこと言った」
「あ、いーよいーよ。そりゃ誰だって気になるでしょ」
明るく振舞っていた彼女は次の瞬間「あれだけ部内にも持ち込んでたから」小さくぼそりと声のトーンを低くして、呟いた。
「じゃあ気になるから聞くけど」
「うん?」
「連絡は?」
「もうないよ」
「でもまだ好きなんだろ?」
「んー……まあ、ちょっとはもやもやしてるかなあ」
「……そっか」
「新しい恋でもできたら違うと思うんだけどね!」
「へーえ。ほら、行くぞ」
彼女の両手を自分の腰に回させて。
「はーい!」
いつものことだから気にならない彼女を乗せてエンジンをかけた。
“新しい恋でもできたら違うんだけどね!”
そう告げた彼女の声は、少し震えていた。